青春シンコペーションsfz


第5章 フリードリッヒ、驚く!(2)


井倉の言葉に皆が愕然とした。
「な、何て事を言うんだ、ハンス先生に向かって……」
黒木が青ざめて言う。が、井倉は固く拳を握ったままじっとハンスを見て続けた。
「死ぬ気になれば何だって出来る。先生はそうおっしゃいました。そして、僕にはっきりと言いましたね」
――何を恐れているの? 君にはもう怖いものなんか一つもないでしょう? 何故なら、君はもうとっくに死んでいるのだから……

(そうだ。あの時、先生は言ったんだ)

――さあ、どうするの? 死にたいなら、僕が殺してあげる。だけど、もう戻る事など出来ないよ

「そう。今は本番。もう戻る事なんか出来ないんです」
震える指を握り締めて井倉は言った。
「だから、僕も先生に言うんです。弾けないとおっしゃるなら今すぐ死んで下さいと……」
それまで黙って井倉の話を聞いていたハンスの表情が緩やかに変わる。

「驚きました」
それから、笑い出して言った。
「参ったです。これは井倉君に一本取られました」
そう言うと、ハンスは大急ぎで袖に駆けて行った。そして、舞台に向かっていたフリードリッヒの肩を掴んで引っ張った。
「戻れよ、ここは僕の出番だ」
「ハンス、弾く気になったのか?」
「当然だ」
そう言うと、ハンスは澄まして舞台に出て行った。
「やったな、井倉君、どうやら彼を説得出来たようだね」
フリードリッヒが嬉しそうに言った。
「ええ。何とかなりました」
そう答えたものの、内心ではまだ冷や汗をかいていた。
「本当に、よかった。どうなる事かと思って冷や冷やしちゃった。ありがとう、井倉君」
美樹にそう言われてもまだ信じられなかった。

(これでよかったのか……? 本当に……)
井倉の胸はまだ、早鐘のように鼓動を打ち続けていた。

舞台に出て行ったハンスはピアノの前に着席した。観客は皆、彼がどんな演奏をするのかと興味津々で見つめている。その中に彩香や藤倉、そして響の姿もあった。
照明は絞られていなかった。にも関わらず、彼の周囲だけスポットライトに照らされたように白く輝いて見えた。それから少しずつ光は落ち着きを取り戻し、彼は目を閉じた。そして、その手が移動し、ゆっくりと鍵盤に着地した。静寂に満ちた客席に低音が響く。

「これは……!」
「プログラムと違う……」
袖に控えていた井倉と美樹は呆然とした。ましてやフリードリッヒの驚きようは半端なものではなかった。聞こえて来たのはショパンのピアノソナタ第2番第3楽章。
客席からも一瞬ざわめきが起こった。が、観客の心は、たちまち吸い寄せられるように舞台の上のピアノに集中した。観客席は荘厳な雰囲気に呑まれていた。聴衆は、導を持った聖者を追うようにして整然と列を為し、付き従っている殉教者のようだった。

「どういう事なんだ、これは……私は聞いていない。聞いてないぞ!」
フリードリッヒは唇を噛み締めて言った。
プログラムNo.1は、エチュードOp.25-9「蝶」の筈だった。それを見事に裏切った事になる。黒木は慌てて、曲の変更を伝えるためにスタッフの所に走った。

「この土壇場に来て……。いったいどういうつもりなんだ、ハンスは!」
何もかも予定通りに行わなければ気が済まないフリードリッヒが声を荒げる。
「そ、それは……。きっとハンス先生には何か特別なお考えがあるんだと思います」
井倉が言い訳する。
「どんな考えがあると言うんだ?」
フリードリッヒが問い詰める。
「そ、それは……」
失態だと井倉は思った。
(どうしよう。そもそもハンス先生が弾かないと言い出したのも、半分は僕に責任があるのだし……)

――前座って何ですか?

(ああ訊かれた時、すぐに思い当たればよかったんだ。そうすれば、先生だって弾かないなんて言い出さなかったかもしれない。それに……。もしかしたらこの選曲も……)

――死んで下さい

(だとしたら、やっぱりこれも僕のせい……?)
「どういう事なんだね? 井倉君、説明したまえ」
フリードリッヒが問い詰める。
「ですから、僕……。僕は先生に死んで下さいと言ったんです。音楽祭の時、会場から逃げ出した僕にハンス先生が言ってくれたから……。僕も先生に言ったんです。死んで下さいって……。そうしたら先生だってわかってくれると思ったから……」
「そうよ。これは井倉君のせいじゃないわ」
美樹が言った。その間にもハンスの奏でる旋律が皆の心に流れ込んで来る。

「ふん。弟子からそう言われて彼は弾く気になったという訳か」
曲に耳を傾けながらも、フリードリッヒは静かにため息を付いた。
「それにしても……」
美樹は胸にそっと拳を押し当てて言った。
「何て美しいの……。これが『葬送行進曲』だなんて……。まるで魂が引きずられるみたい……」
仕切られたカーテンの向こうから響く音に魅せられて、思わずため息を漏らした。

ホールの中は張り詰めていた。そして、満たされていた。誰もがこの無名のピアニストが奏でる音に釘付けになっていた。これまで聞いた事のないような深い安らぎを覚え、観客は知らず涙を流していた。

「次は君だろ? フリードリッヒ」
惜しみない拍手がホールを満たす。そこに戻って来た黒木が彼の肩を押した。
「ええ。そうですね。準備します」
ハンスが袖に戻って来る。が、彼は無言で舞台に向かった。

フリードリッヒが現れると、会場から更なる拍手が起こった。何人かの女性から歓声も上がる。彼はホールを見渡すとにこりと笑って席に着いた。そつの無い美しい振る舞いだった。が、会場にいた藤倉だけはそんな彼の態度に違和感を抱いた。
(何だろう? トップの曲の変更といい、バウメンの態度といい、このコンサートはどこかおかしい。いったい何があったんだろう?)

藤倉は、不自然さの正体を感じ取ろうとしていた。
(それにしても、バウアーの『葬送行進曲』は素晴らしかったな。何より入り方がいい。最初の一音で胸がざわついた。とかく平板になりがちな音を極力までに抑え、それでいてくっきりとしたメロディーを打ち出して来る。そして力強いコーダ。あのメリハリによって呼び起こされる魂の振幅。曲が終わってもまだ打ち震えている私の鼓動……。この1曲のためだけでも……。今日、ここに来た価値があった)

続いてフリードリッヒによる演奏。ラフマニノフのエチュード2曲
(さすがはバウメン。安定している。メロディーの美しさに加え、技巧も完璧。流麗なバランス。まさしく文句の付けようがない完璧な演奏だ)
それからハンスが短いワルツを2曲演奏し、フリードリッヒがショパンの幻想ポロネーズを弾いた。そして、前半最後はハンスがベートーヴェンのソナタ「ワルトシュタイン」を弾いて休憩となった。

「素敵ね。わたし、ここで聴いてても涙が出ちゃった」
美樹に言われてハンスは嬉しそうだった。
「美樹ちゃん、後半は客席で聴いてて下さい。僕はもう大丈夫だから……」
ハンスが言った。
「でも……」
不安そうな彼女の肩を抱いてハンスが言う。
「大丈夫。今日ここに白いバラはないでしょう?」
彼女は頷くと微笑して言った。
「そうね。わたしもアンコールの時、この花束渡すね」
彼女が持っていたのは赤いバラだった。
「井倉君、君も客席で聴いて……。その方が全体のバランスが良く聞こえると思うから……」
ハンスが言う。
「はい」
そう返事をして歩き出すと師が肩を掴んで言った。

「さっきはありがとう」
「先生……」
振り向くと師は微笑んでいた。その顔を見ると井倉は嬉しくなった。
(僕は間違ってなかったんだ。ハンス先生、ちゃんとわかってくれた)

「後半、楽しみにしています」
そう言うと井倉は美樹や黒木と共に客席に向かった。
後半はフリードリッヒがスケルツォとノクターンを弾き、続いて二人の連弾でシューベルトの軍隊行進曲。ハンスのソロはドビュッシーから2曲。そしてラストはフリードリッヒがショパンのバラードを弾いた。どの演奏も珠玉の出来映えで、観客は惜しみない拍手を二人のために送った。そして、アンコールは二人の連弾でスケーターズワルツを弾いた。割れんばかりの拍手。それはなかなか鳴り止まなかった。

「カーテンコールだ。でも……」
フリードリッヒが口籠もる。
「弾かないのか?」
ハンスが訊いた。
「しかし……」
「観客はおまえのソロを聴きたいんだろ?」
「だが、私一人が弾いては不公平だ」
「行けよ。その後、まだ鳴り止まないようなら僕も出るさ。勝手にプログラムを変更しちゃったからね。その分を……」
「なるほど。いいだろう」
そうしてフリードリッヒは舞台に出るとエチュード4番を弾いた。圧巻な仕上がりだった。観客は再び拍手した。思った通り、まだ鳴り止まない。ハンスも出て行った。そして弾いた。

「これは……」
井倉は唖然とした。
「蝶? それとも……黒鍵?」
それは俗に言う14番。二つの曲をミックスしたものだった。
「す、すごい……! こんな事が出来るなんて……」
誰もが驚き、驚嘆した。それから惜しみない拍手。美樹が花束を差し出す。
「ありがとう」
ハンスは笑顔で受け取ると袖に戻った。アンコール3回。そしてカーテンコール。観客達は興奮していた。終了のアナウンスが流れてもまだ席を立とうとしない者も多かった。響もその一人だった。彼は涙を流していた。それを彩香は目撃した。が、あえて声は掛けなかった。彩香もまた流れる涙を拭うのに忙しかったから……。
(彩香ちゃん……)
井倉はそんな彼女を見て、更に胸が熱くなった。
(ハンス先生もバウメン先生も本当にすごい……。とても僕なんかには太刀打ちできない……。でも、いつかは……。先生を超えたい)
井倉の中にそんな気持ちが芽生えていた。

「すごいな。あのハンス・D・バウアーって人。幻のエチュード14番弾けるなんて……。俺、一瞬耳を疑ったよ」
観客の一人が言った。
「弾ける奴は数えるくらいしかいないし、多くは自動演奏なんだ。なのに、生でやるなんて信じられない。それにワルトシュタインもぞくぞくしたな。すっかりファンになったよ。あの人のCD売ってないのかなあ」
「フリードリッヒ様も良かったわよ。わたし、CD全部持ってるんだけど、新しいアルバムはまだ出ないのかしら?」
コンサートは大盛況だった。

「どうだハンス。次はサイン会とか握手会とかも企画しないか?」
フリードリッヒが訊く。
「悪くないね。でも……サインはちょっと……」
「自信がないのか? 君らしくないな。大丈夫さ。文字なんて崩してしまえばそのように見えるさ」
「いい加減な事言うなよ。僕はちゃんとしたいんだ。やるならもっと練習してからにするよ」
「練習だって? 驚いた。だったらピアノの方もしっかり頼むよ。いきなりぶっつけ本番のコンサートだなんて肝が縮む」
フリードリッヒの言葉にハンスは笑って言った。
「あは。それじゃあ、おまえの肝ってよっぽど小さいんだな。道理で僕に見えないと思った」
「ヘル バウメン。お疲れ様です。ハンス先生もお疲れ様でした。お着替えが済みましたらこちらでお飲み物でも……」
黒木が誘う。
「ありがとう」
二人は機嫌良く言った。

「ハンス先生、バウメン先生、僕、感激しました」
井倉も来て言った。
「井倉君、今日の成功は君のおかげです」
ハンスが言った。
「あら、それはどういう事ですの?」
彩香が訊いた。
「それは……」
井倉が口籠もる。
「大事な場面で井倉君が励ましてくれたのよ」
美樹が言った。
「励ます? ハンス先生を?」
「そうです。僕、ほんとにびっくりしてしまいました」
ハンスがバラを掲げて笑う。彩香はよくわからないといった顔をした。

「大した事ではないんです」
井倉が言い訳する。
「いいえ。大した事あるですよ。何しろ、師匠である僕に死ねと言ったんですから……」
「何ですって? 井倉、そんな事言ったの?」
「そ、それは弾みで……」
「ううん。カッコ良かったわよ。弾けないといってごねてたハンスに、だったら先生今すぐ死んで下さいなんて言ったんですもの」
美樹が演技を交えて言う。
「そんな事言ったの? 井倉が……意外だわ」
彩香が驚く。
「ともかくそれで上手く行ったのだから、井倉君に感謝しないといけないというのは事実だ」
フリードリッヒも口を添える。

「そんな……」
井倉は困ったようにもじもじした。
「何はともあれよくやった」
黒木もその肩を叩く。
(何かわからないけど、みんなから感謝されてる。よかった。本当に……)
井倉は心底ほっとしていた。
「次は十日後だ。ハンス。未だ気は抜けないぞ」
フリードリッヒが言う。
「大丈夫。もう要領はわかったからね」
「また弾けないなんて言わないでくれよ」
「ふふ。あれは冗談だよ。なのに、みんなあんなにあたふたしちゃって……」
そう言うとハンスはくくっと笑った。

(冗談って……。ほんとに……?だとしたら僕がやった事って結局何の役にも立っていないんじゃ……)
井倉は混乱していた。
「まあ、良かったじゃないか」
黒木がその肩を掴んで言う。
「おまえがやった事は無駄じゃないさ。ハンス先生だってわかってる。だから、おまえにありがとうと言ってくれたんだ。そうだろう?」
「はい」
黒木の言葉に井倉はまた胸が熱くなるのを感じた。
「そうですよね」
が、次の波乱は帰り道の車中で起きた。

彩香が突然こんな事を言い出したのだ。
「ねえ、井倉、若手育成のためのチャレンジコンクール、もう申し込んだ?」
「え?」
井倉は面食らった。黒木が運転する車には、ハンスと美樹、そして井倉と彩香が同乗していた。
「へえ、コンクールあるですか?」
助手席のハンスが振り向く。
「ええ。2年に一度11月に開催されていましてね。優勝すれば100万円の賞金も出るし、何より運が良ければソロリサイタルが開ける。デビュー前ならそれがデビューに直結する。ハードルは高いがチャレンジする価値のあるコンクールなんです。井倉、どうだね? やってみないか?」
黒木も勧める。

「でも……」
井倉は口籠もった。
「それってプロアマ問わずのコンクールで、確か前回は優勝者なしだったって聞いてます」
「そうよ。審査の厳しさでも有名なの。でも、お父様との約束を果たすためには申し分ない条件だと思わない?」
彩香が申込書の付いたチラシを見せて言った。
「彩香さんは出ないの?」
美樹が訊いた。
「ええ。残念ですけど……。わたしは……テレビのグランドチャンピオン大会に出るので、他のコンクールには出られないんですの。でも、井倉が優勝してくれれば……」
夜間の高速道路では、一定の車間距離を取った車と等間隔のライトが道路を照らす。

「でも……。プロとして活躍している人も出るのでしょう?」
井倉の胸の鼓動が速くなる。
「……。たとえばあの生方響だって出るかもしれないし……」
小声で言った。
「彼は多分出ないと思うわ。今、ヨーロッパツアー中だから……」
彩香が答える。
「でも、他にだって実力のある人は大勢いるでしょう。例えばハンス先生だって……」
「あは。僕が出たら井倉君に勝ち目はありませんよ」
ハンスが笑う。
「そうでしょう? だから……」
井倉の声に力がこもる。

「ふふ。大丈夫よ。規定には30才以下って書いてあるもの」
コンクールの概要が書いてあるチラシを見ていた美樹が言った。
「何だ。残念」
それを聞いたハンスが口笛を吹く。
「あら、あなたもコンクールに出たかったの?」
美樹がからかうように言う。
「いいえ。僕は興味ありませんけどね。井倉君には大事なチャンスかもしれない」
そう言うとハンスは美樹の手から受け取ったチラシを井倉に渡した。

「チャンスって……そうかもしれないけど、僕は……」
チラシを見つめて井倉が俯く。
「怖いの?」
彩香が訊いた。
「だって、僕にはプロと張り合うような実力がない」
「お父様との約束を忘れたの? 来年の夏までに何がなんでもデビューしなきゃならないのよ。もしかしたら、これが最後のチャンスかもしれない」
「でも……」
「それじゃ、諦めるの?」
「そんな事言ってないよ。だけど、いまの僕の実力じゃ、とても追い付かないって言ってるんだ」
井倉の手が震える。

「そう。わたしの事なんてどうでもいいのね」
「違うよ。彩香さんの事は大事だ」
「だったら何故? 試してもみないうちに諦めるなんて……」
「だって、今のままじゃとても……」
「わかった。もういいわ」
彩香は井倉の手からチラシを取ると破こうとした。それをハンスがさっと取った。
「いらないならその紙僕に下さい。折り紙にするですよ」
そうしてハンスはそのチラシを折って飛行機を作った。それを窓から飛ばそうとするのを美樹が止める。
「駄目。窓から捨てたら危ないでしょう」
(コンクールか。そりゃ、僕だって出たい。でも……)
過去の出場者のリストを見ただけで足が竦んだ。今では一流と言われる人達の名前ばかりが並んでいたからだ。
(やっぱり無理だよ、僕には……)
井倉の心は頑なに閉じていた。


翌日、井倉は、美樹とハンスと共に買い物に出掛けた。
「ごめんなさいね、井倉君。付き合わせちゃって……」
美樹がすまなそうに言う。
「いいんですよ。僕でお役に立てるなら……」
「助かるわ。もう大分冷えて来るからお布団のカバーや何かも冬用のにしないとだし……。少しずつ揃えておかないと大変なの」
「そうですよ。子ども達のおやつも買わないと……」
「そうね。大きい子のおやつも必要だし……」
そう言って美樹はちらとハンスの方を見て笑った。
「井倉君、あっちのスタンドでジュース飲みませんか?」
ハンスが先に行ってしまったので美樹達は急いで後を追った。
「あれ? こんな所にピアノが……。へえ。フェアをやってるのか」
スタンドの脇は催し会場になっていた。これまでにも様々な企画が行われて来たのだが、今回はピアノの中古フェアが行われていた。

「でも、ここにあるのはアップライトと電子ピアノばかりなのね」
美樹が見回す。
「あっちに一つグランドピアノもありますよ」
ハンスがそちらに向かって駆けて行く。
「あ、勝手に触っちゃ駄目よ」
美樹が注意する。しかし、ハンスはもうピアノの前に座っていた。一瞬閉じた目に光が宿る。吐息がBGMを掻き消すと彼はさっと鍵盤に手を触れた。そして、軽やかなタッチでモーツアルトのソナタを弾き始める。
「すごーい、上手!」
「誰なの?」
周囲に人が集まり出した。そこはまるでコンサートホールにいるような雰囲気に包まれた。
「あ、あのピアノ……」
井倉は引き寄せられるように近づいた。そして驚いた。そのピアノの足には削られたような傷があった。
(間違いない。あれは僕の……)
2年前、音大に入学した時買ったピアノ。その右の足にあった傷。
(優介のYみたいだって、ずっと思ってた)

「どうです? これは大変お買い得になっておりまして……。傷があっても音色には何の問題もございませんので……」
店員が盛んにアピールしている。
(あの傷は始めからあったんだ。ドイツ製の良い品物で、普通なら中古でも200万円は下らないという物だったのに、僕は120万という破格値で買った。もちろんローンだけど……。ああ、そのローンだって払い終わっていないのにピアノは持って行かれてしまった。悲しくて、悔しくて泣き明かした。あの時の……。あのピアノが今、ここに、目の前にある。そうだ。間違いない。これは僕のピアノだ)
そのプライスは98万円。集まって来た人々に店員は熱心に勧めた。
(確かにお買い得な値段だ。売れちゃうだろうな。きっと……。そうしたらまた、僕の手の届かないところに行ってしまう。悔しい。でも、僕にはお金がない。だから……)

――諦めるの?

(いやだ! でも……)
ハンスの演奏が終わると、人々は去って行った。結局そのピアノは売れなかったようだ。何人かが電子ピアノのコーナーに流れて行った。グランドピアノがいくら良くても、それだけで面積を取ってしまう。日本の住宅事情では現実的に難しいのだ。
「あの、このピアノフェアはいつまでやっているんですか?」
井倉が訊いた。
「こちらでは明後日まで。その後幾つかの会場を回って……」
「もし売れなかったらこのピアノはどうなるんですか?」
「ひとまず倉庫に……。その後は多分外国にでも行くんじゃないかな。傷があっても音には問題ありませんから……。日本人はとかく見た目に拘って、傷があると売れにくいんですよ」
店員は苦笑した。

「このピアノ、僕に売ってください。今はその……お金がなくて、でも、そのうちきっと何とかします。だから……」
「そのうちと言われましても……。ローンを組むとかすればお売りする事は可能ですが、口約束では困ります」
「そうですか。そうですよね。わかりました」
井倉は引き下がった。

――優勝すれば100万円の賞金も出るし

(100万円。なら、やるしかない)
井倉はハンスの元に行くと宣言した。
「僕、コンクールに出ます! そして、優勝します」